* 海の匂い*
“プルースト効果”という言葉を知っていますか?
プルースト効果――とは、ある特定の匂いが過去の出来事を思い出させる現象のことをいいます。
フランスの小説家、マルセル・プルーストの小説、『失われた時を求めて』の中で、主人公が紅茶に浸したマドレーヌの匂いから子ども時代を鮮明に思い出すエピソードがあり、そこから名付けられたといいます。
私は、食材があまり残っていない日曜の朝に、小麦粉やベーキングパウダーがあったので、後は牛乳と玉子でパンケーキを焼いた時に、小学校時代のそろばん教室の記憶がまざまざと蘇って驚いたことがあります。
いつもはミックス粉を使っていて、香料の匂いがあったのでしょう。素朴な材料だけで焼いたパンケーキは、お友だちのお姉さんが先生のそろばん教室で、お稽古が終わると、そこのお母さんがホットプレートを出して生徒たちにふるまってくれたホットケーキと同じ匂いだったのです。大きく焼いたホットケーキをみんなで切り分けて食べた事は、何十年も忘れていた事でした。
なんでも、視覚や聴覚が脳の視床と呼ばれるところを経由して大脳新皮質へ伝わっているのに対して、嗅覚は偏桃体と海馬という記憶と感情を処理する場所にまっすぐつながっているのだそうです。だから、こんな驚くような事が起こるのですね。
そういう経験をしてから、匂いへの興味が増して、生活の中でも落ち着く香りや元気が出る香りなどを時々に取り入れたりしています。私の好きな香りの中に“マリンの香り(マリンノート)”と称されるものがあって、多分好きな人が多い人気の香りです。しかし、それは潮風や海をイメージして作られた完全に想像上の香りで本当の海の匂いでは決してないのだけれど、それでもその匂いにある種の説得力があるのは不思議だなと思います。
マリンの香りのもとになる香料はCalone(カロン)は、1966年に製薬会社のファイザーが発見したもので、化学的構造が藻類のいくつかの種のフェロモンに含まれるている物質と似ているのだそう。マリンの香りから私たちは無自覚に藻類の匂いを嗅ぎつけているのだとしたら面白いですね。
気圧配置の妙で、夜半に海の上を長く渡ってきた空気が海の近くない私のすむ街まで届くことがありました。それは生々しい生命の匂いとでもいう様な、決して心地よくはない匂いなのですが、「あぁ、海の匂いだ、ここまで海の匂いが届くことがあるんだ」と思わず口をついた言葉には自分でも意外なほどの海への想いがこもったものでした。